砥ヶ碕
佐比内金山物語
 北上川の東側、北上山地は古代の砂金採集の時代から産金地帯として知られておりました。繰返し行われた陸奥の国への征夷といわれる中央政府の侵略は金が目的と言われております。

佐比内における産金も砂金が主な時代があったと思いますが、記録に残る金山は1600年代において9箇所が数えられます。この金山は鉱脈による坑道堀であったと言われます。中でも南部藩最大の金山といわれた朴木金山は、元和八年(1622年)江戸で運上金(税金)を競り合い、入れ札で山師丹波弥十郎が大判6500枚(6万5千両)の巨額で落札して世人を驚かした。当時の南部藩の米穀収入の2.6倍であった。丹波弥十郎は京都生まれで佐渡金山の開発にも関係したと言われており切支丹であったと伝えられております。

 佐比内に伝わる古文書「厚朴金山覚書状之事」によると山仕大工の数壱万三千人、小屋敷山小屋共に二千百弐拾軒といわれ、江戸、仙台秋田から角力、歌舞伎興行が盛んで、傾城(遊女)も江戸より300人、仙台から250人下り「山盛り申すこと夥しき事奥州五十四郡、出羽十二郡両国に懸る名所有間じきと皆々申し来る」といわれました。

 産金日本一といわれた朴木金山わずか30年程度の繁栄であった。佐比内地域の金山は1930年ころまで大小に続けられました。佐比内の「金山踊り」(からめ節)は今に繁栄を伝える。







朴木金山


「金山踊り」(からめ節)
inserted by FC2 system