白いカタクリの花
佐比内隠切支丹
 1612年(慶長17年)江戸幕府はキリスト教禁止令をだしその信仰を禁じました。三代将軍家光のとき各藩は宗門奉行を定め、寛永十年から十三年(1636年)にかけて強硬な切支丹弾圧を行いました。寛永十三年幕府は南部藩重臣石井伊賀守を厳しく詰問いた中に「去年諸国切支丹詮議のとき、東国にて南部領に切支丹の者最も多かりしこと」について吟味を受けている。これに答え「先年朴木(志和郡佐比内)で金山を発見し、京都の産丹波弥十郎に採掘を請け負わせたところこの弥十郎が引き連れてきた千人余の鉱夫の中に切支丹が多数潜入していた。これらの信徒が近郷近在の男女に宗旨を進め信徒が増えたもの」としている。

 当時一旦鉱山に入った者は親殺し、主殺し以外は刑事訴追を拒否する特別を主張し、藩も鉱山政策上主張を認めていた。鉱山はもっとも安全な隠れ場所となっていました。

 佐比内における切支丹は前期の丹波弥十郎率いる金山労働者としての信徒、又、後藤壽庵のとなり地域の小山田村に多く、取り締まりにより鉱山に入り込んだとの説もある。

 坑道の奥にはクルスを壁に刻んだ場所もあり、地上では祈ることができなくとも地下ではおおっぴらに拝める天主堂があったとの説







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